解かった!法華経の「良医病子の譬え(ろういびょうし、如来寿量品)」 その2

その1からの続きです。

●法華経の如来寿量品は、二乗作仏、声聞・縁覚をも救える

 なるほど、二乗作仏、声聞・縁覚は、
(自分なりの見識や感覚で、覚った思い、それ以上精進をしない人達のこと。:腹を壊して苦しんでいる子供達のこと。)
 このお釈迦様の慈悲深さに比べたら、紙屑のようなものです。

 覚りとは永遠に続くのですから、お釈迦様を見らなって、生きていても、たとえ亡くなったとしても、ずっとずっと精進をし続けなければいけなのです。まさに、法華経の如来寿量品は、二乗作仏、声聞・縁覚をも救えるのです。


●白隠はやっぱり天才だ。菩提心なければ魔道に堕つ。
(白隠は、法華経の如来寿量品より覚ったはず。)

 私は、白隠禅師のことが好きで、以前以下のように、白隠さんのことをご紹介させて頂きました。


★松蔭寺参拝記 では
http://worldmate-hope-earth.blog.so-net.ne.jp/archive/201201-1

 白隠は、42歳で、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。


★白隠はやっぱり天才だ。菩提心なければ魔道に堕つ。 では
http://worldmate-hope-earth.blog.so-net.ne.jp/2011-05-09

(「白隠禅師法語全集 第8冊」より一部引用)

 白隠27歳の時、遠州新居の龍谷寺で、たまたま「沙石集」を読んでいて、ある言葉に出会って大いに恐怖して、それまでの慢心をすっかり砕かれたのであった。

 昔、春日の大神君、笠置(かさぎ)の解脱上人に告げ玉わく、

「およそ拘留孫仏(くるそんぶつ)よりこのかた、一切の智者および高僧、菩提心無き者はことごとく魔道に堕す
と。この言葉を見て、思わず身の毛がよだったのだ。

 それ以来、「菩提心」とはいったい何かと、久しく考えて来た。お経を読んだり写経をしたりするのも菩提心のためではないか、仏さまを拝むのも菩提心であろう。

 ましてや、難行苦行をされた智者高僧方ではないか、どうして菩提心のないことがあろうか。

 それにしても「一切の智者および高僧、菩提心無き者はことごとく魔道に堕す」という神慮には、きっと深いお示しがあるに違いない、と。

 そして、42歳になった時にようやく菩提心とは四弘誓願(しぐせいがん)の実践に他ならないのだと確信したのだった。

 もし春日神君のご神慮がなかったならば、私のごときは必ず魔道に堕ちていたことであろう。ありがたや春日大神君、その本地はまさに地蔵菩薩であろう。

(白隠禅師法語全集 第8冊 の引用終了)
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 ようするに、どれだけ高い悟りを得ても、菩提心を持って、今後も修行に励まないと、魔道に落ちますよ。ということなのです。
※白隠は悟後の修行の大切さを説いております。

 前回の十牛図にありましたが、牛を捕えて自分の物とできても、そこで安住していたらいけないのですよ、そこで慢心していたら魔道に落ちますよ、ということです。

 では、菩提心とは何かと言うと、白隠は42歳の時に、四弘誓願(しぐせいがん)に違いないと喝破しました。

 白隠42歳といえば、法華経を読んで大悟した時ですから、お釈迦様に追い付いたときに、そう確信したということです。


●四弘誓願とは(wikipediaより)

 四弘誓願(しぐせいがん)とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。


★四弘誓願

一、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願

二、煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

三、法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち)
法門は無尽だが、すべて知るという誓願

四、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

(wikipediaの引用終了)
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(四弘誓願に関する、私の簡単な解釈)

 悟りとは無限にあるのだから、立ち止まることなく、今後も神仏を信じ、ずっとずっと求道に励みなさいよと。
 そして、悟ったものを、自分だけの物として止めないで、ずっとずっと人に伝えていきなさいよ。

ということかと思います。

(白隠はやっぱり天才だ。菩提心なければ魔道に堕つ。の引用終了)
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●白隠は、法華経の如来寿量品を読んで大悟したに違いない。

 白隠は、法華経の如来寿量品を読んで、お釈迦様の深い慈悲心を知り、

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その1より お釈迦様の慈悲心

(お釈迦様は、永遠の存在であり、生きていれば、現実の世界で、衆生を済度しつづけ、亡くなっても、あの世から、衆生を済度して続け、再び生まれ変わってきても、衆生を済度し続けているのです。永遠に衆生を済度し続けているのです。)
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 一生涯「菩提心」を持ち続けて、精進することの大切さを深く覚ったのだと私は思います。

(菩提心を持たない状態は、二乗作仏、声聞・縁覚の状態であり。お弟子達が、まさに腹を壊している状態なのです。)

 だからこそ、白隠は、84歳で入寂するまで、弟子を育て続け、自身も求道に励み精進し続けられたのでしょう。

 さすが、生涯に「大悟徹底七度八度、小悟徹底枚挙に暇なし」と言わしめた白隠禅師です。まさに500年に一度の天才です。白隠の覚りは本物です。

 改めて、私は白隠の素晴らしさを、如来寿量品から伺い知れた気がいたしました。


●人というのは、一生涯、(たとえ亡くなっても、そして生まれ変わってきても)ずっと精進し続けなればいけない。

 法華経の如来寿量品を読んでいるうちに、白隠につながっていったのは、とても意外でした。
 ですが、この解釈で、間違いないと思います。

 ですから、私も、一生涯、「久遠実成の釈迦牟尼仏」や「白隠」を見習って、この菩提心を持って、精進していきたいと心新たに、決意した次第です。

 日蓮上人の言うとおり、法華経で最も一番大切な箇所だと、私は感じ入りました。


●「先天の修行」ワールドメイト(リンク)で教えて頂いたからこそ、如来寿量品が理解できた。

 ここまで、私の解説を紹介させて頂きましたが、ワールドメイトリーダー、深見東州先生は、ご講演で、何回も白隠さんや、法華経の解説をして下さっております。

 そのおかげで、なかなか理解できなかった、如来寿量品が、心底解った気がしました。

 私の直感なのですが、この法華経の「良医病子の譬え(ろういびょうし、如来寿量品)」を、ちゃんと理解している人は、この世にある仏教教団の中には、ほとんどいないのではないかと思います。

 私自身、たぶん、他教団にいたのでは、絶対に分からなかったはずです。

 ワールドメイトで、先天の修行をさせて頂いていたからこそ、私は、理解できたのだと思います。(完璧に理解できているかはわかりません。しかし、ほぼ間違いないとは思います。)
http://worldmate-hope-earth.blog.so-net.ne.jp/archive/20110516

 ワールドメイトおよび深見東州先生との縁ができたことに、私は本当に感謝させて頂きます。




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