通した!白隠禅師の「隻手音声」の公案
皆さま、白隠禅師という禅僧をご存じでしょうか。
以下、白隠禅師の略歴です。(白隠禅師の紹介ページより)
●白隠禅師~500年に一度の名僧~
15歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられた。19歳より旅に出て諸国を修行し、ついに500年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。
禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和5年(1768年)12月11日84歳で入寂(にゅうじゃく)し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
(引用ここまで)
ワールドメイトの深見東州先生によると、白隠禅師は、日本の歴代僧侶の中で、霊格ナンバーワンだそうです。弘法大師や伝教大師よりも上だそうです。
それもそのはずだと思います。
白隠禅師は、24歳のとき、越後高田の英厳寺(えいがんじ)で坐禅中、鐘の音が鳴り渡るのを聞き、禅師はこつ然と大悟したそうです。その後、信州飯山の正受老人(しょうじゅろうじん)の基で修行し、その法を嗣いだそうです。
そして、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。
ワールドメイトの深見東州先生の解説によると、
法華経を体得できたということは、お釈迦様と同じレベルに達したということです。
ようするに、白隠禅師は42歳で、釈尊に追い付いたのです。
その後も、一日も怠ることなく修行をし、後進を育て続け、84歳で入寂する頃には、釈尊が開いた悟りの2~3倍に達していたそうです。
これを考えれば、日本史上最高の僧侶だったことが伺えます。
禅文化研究所から出ている、白隠禅師法語禅集(全14巻)を読んでいると、白隠のすごさが良くわかります。
白隠は、数多くの後進を、見性(悟り)へと導きました。
何十年修行しても、なかなか見性(悟り)が得られない僧侶達を、ガンガンに見性(悟り)へと導いていったそうです。
これはすごいと、噂が噂を呼び、白隠禅師がいた松蔭寺には、200~300名の僧侶が常に集まり、修行をしていたそうです。
後進への指導は、雷が巌を打ち付け破壊するぐらいの、迫力があったそうです。
白隠禅師が説法をするとなると、京都のお寺でも、飛騨高山のお寺でも、200~300名の人々が自然に集まってきたそうです。
佐賀藩の大名も、参勤交代の途中に松蔭寺に立ち寄り、白隠禅師の指導を仰いでいたそうです。
これから考えても、いかに白隠禅師の悟りが本物であり、指導者としても優れていたかが良くわかります。
白隠禅師は、後進の指導として、見性(悟り)を得させるために、オリジナルな公案を創案しました。
有名な「隻手音声」の公案です。
見性(悟り)を求めてくる修行者に、まずこの公案を与え修行をさせたそうです。
概要は、(隻手の声 – Wikipediaより)
「隻手声あり、その声を聞け」
(大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい。)です。
これがわかるまで、僧侶は修行をするわけです。
私も考えました。両手を打ち合わせると音がするけど、片手ではどんな音がするか?片手では合わせる手がないから、音なんて出ない。
どういうことだろう?と。
長文になりそうですので、続きは次回のタイトル
通した!白隠禅師の「隻手音声」の公案 その2 で紹介いたします。
以下、白隠禅師の略歴です。(白隠禅師の紹介ページより)
●白隠禅師~500年に一度の名僧~
15歳のとき松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名付けられた。19歳より旅に出て諸国を修行し、ついに500年間に一人と言われるほどの高僧となり、のち臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。
禅画をよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和5年(1768年)12月11日84歳で入寂(にゅうじゃく)し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
(引用ここまで)
ワールドメイトの深見東州先生によると、白隠禅師は、日本の歴代僧侶の中で、霊格ナンバーワンだそうです。弘法大師や伝教大師よりも上だそうです。
それもそのはずだと思います。
白隠禅師は、24歳のとき、越後高田の英厳寺(えいがんじ)で坐禅中、鐘の音が鳴り渡るのを聞き、禅師はこつ然と大悟したそうです。その後、信州飯山の正受老人(しょうじゅろうじん)の基で修行し、その法を嗣いだそうです。
そして、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。
ワールドメイトの深見東州先生の解説によると、
法華経を体得できたということは、お釈迦様と同じレベルに達したということです。
ようするに、白隠禅師は42歳で、釈尊に追い付いたのです。
その後も、一日も怠ることなく修行をし、後進を育て続け、84歳で入寂する頃には、釈尊が開いた悟りの2~3倍に達していたそうです。
これを考えれば、日本史上最高の僧侶だったことが伺えます。
禅文化研究所から出ている、白隠禅師法語禅集(全14巻)を読んでいると、白隠のすごさが良くわかります。
白隠は、数多くの後進を、見性(悟り)へと導きました。
何十年修行しても、なかなか見性(悟り)が得られない僧侶達を、ガンガンに見性(悟り)へと導いていったそうです。
これはすごいと、噂が噂を呼び、白隠禅師がいた松蔭寺には、200~300名の僧侶が常に集まり、修行をしていたそうです。
後進への指導は、雷が巌を打ち付け破壊するぐらいの、迫力があったそうです。
白隠禅師が説法をするとなると、京都のお寺でも、飛騨高山のお寺でも、200~300名の人々が自然に集まってきたそうです。
佐賀藩の大名も、参勤交代の途中に松蔭寺に立ち寄り、白隠禅師の指導を仰いでいたそうです。
これから考えても、いかに白隠禅師の悟りが本物であり、指導者としても優れていたかが良くわかります。
白隠禅師は、後進の指導として、見性(悟り)を得させるために、オリジナルな公案を創案しました。
有名な「隻手音声」の公案です。
見性(悟り)を求めてくる修行者に、まずこの公案を与え修行をさせたそうです。
概要は、(隻手の声 – Wikipediaより)
「隻手声あり、その声を聞け」
(大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい。)です。
これがわかるまで、僧侶は修行をするわけです。
私も考えました。両手を打ち合わせると音がするけど、片手ではどんな音がするか?片手では合わせる手がないから、音なんて出ない。
どういうことだろう?と。
長文になりそうですので、続きは次回のタイトル
通した!白隠禅師の「隻手音声」の公案 その2 で紹介いたします。
2011-04-19 19:18
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